日本の開発の進む道

ネットで見かけた「重さのある世界」ということに関する記事を読んで、結構共感しました。
前の記事で書いた、「AI」とかが「重さのない世界」の出来事だとし、以下のように対比しています。

「重さのない世界」=ICT空間では、工夫次第でソフトウエアやデバイスやサービスシステムをオープン・モジュラー型アーキテクチャにしやすく、「重さのある世界」で、特に高い機能を要求される製品は、部品間で細かい設計調整を必要とする複雑なインテグラル型アーキテクチャになる傾向があります。

で、アップル、グーグル、アマゾンなどが、他社の力も利用しながら、こうしたオープン型での戦いに勝利してきて、日本の企業が、少なくともこの切り口では、追い込まれてきているわけです。
著者は、『「上空」と「地上」、その間をつなぐ「低空」の三層のアナロジー』でこの構造を捉え2ページ目の図、『「地上」を得意とする日本企業が採るべき』道は、『「低空」領域、すなわちものづくりの現場とICT層をつなぐインターフェース層における世界規模での主導権争い』に勝ち抜くこととしています。
この領域が、ドイツが掲げた「インダストリー4.0」になるわけですし、日本企業での成功例として、村田製作所やシマノの例を挙げています。
ここまでの大筋は、大賛成です。

でも、最後に、以下のようにまとめていますが、この部分がちょっとだけ不安があります。

したがって、日本企業が得意としてきた現場力は、今後も強みとして地道に向上させていくことが求められます。そのうえで、これまで弱かった本社の戦略構想力を高めていくことが重要です。強い現場と強い本社の両輪が回れば、日本企業はそうそう負けないはずです。

この「戦略構想力」があまり強くなかったから、「上空」を制圧されてしまっているというような気もします。
まあ、私は、技術の観点から、シミュレーション等を地に足の着いた実製造技術と組み合わせて、地上から低空を制圧できるようなレーダー網や高射砲的なアプローチができればと願って、もうひと頑張りしたいと思っているわけです。
まあ、高空からのミサイル一発で殲滅されるかもしれませんが。

「機械学習とかAI」と材料設計

私は高分子材料を使った材料設計とかの研究開発にかかわっているつもりですので、少なくとも、その関連では、あまり機械学習とかは有効ではないのかもしれないと、比較的に否定的な見方をしております。

最近、以下の記事を見て、単純に否定していても意味がないかなあと、ちょっと思いました。
ディープラーニング関連の記事

つまり、私が否定的な雰囲気でしゃべっているときにでも、画像認識とか自動運転とかは割と近い未来に実用化されると認めてはいます。
そのうえで、高分子材料の材料設計とかはメゾスケールでの自由度があまりに高すぎるので、(引用元の文脈での)深い関数があまりに深すぎるのかなあと思っているのです。

実際、有機合成におけるレトロシンセシス(E.J.Corey 先生が提唱した最終生成物からのステップワイズな逆合成)のように、かなり限定的な応用においてもあまり成功しているとは思えない状況でした。
レトロシンセシスへの応用
私は、高分子材料の材料設計はレトロシンセシスよりもかなり深い事象だと思っています。

でも、「今月号の「化学」(そういう名前の雑誌)に “AlphaGo” の手法とかを転用する話が出ていて、その文脈で考えると、案外、人間の考えつくことぐらいを多少浅い有機合成の合成パス探索ぐらいには応用できるのかなあという気もしてきました。

で、材料設計に対しても、もしかすると、割と短い時間スケールで今は思いつきもしない「有効なアルゴリズム」が見いだされるのかもしれないなあと、ちょっとだけ思った次第です。
というか、教師データのほうを、例えば以下の記事のように上手に取り扱ってやるだけでも、ディープラーンできてしまうのかもしれないとも思ってしまう今日この頃なのです。
教師データの内容をうまく取り扱う方法の記事

5W1Hの使い方

基本的な5W1H

人に伝える文章を書いたり話したりするときに、情報をきちんと伝えるための基本的なポイントとされる、”5W1H” について考えてみましょう。

Wikiでは、以下のように書いてあります。

5W1Hは、一番重要なことを先頭にもってくるニュース記事を書くときの慣行である。
ニュース記事の最初の段落はリードと呼ばれる。
ニューススタイルの規則では、リードには以下の「5W」の多くを含むべきとされている。
すなわち、
When(いつ) Where(どこで) Who(誰が) What(何を) Why(なぜ)したのか?
である。
しかし日本においては、「5W」にさらに下記の「1H」を含む「5W1H」であるべきであるとされる。
How(どのように)
Wikipedia 「5W1H」

確かに、会社での報告とかでもこれを大事にしろと教えられます。

ちょっと脱線しますと、上記のWikiの後半に、「5W1Hの始まり」は英国の児童文学者で詩人のラドヤード・キップリング書いた物語の一節
だということも書いてありました。

「象のこども(原題:The Elephant’s Child)」は次のような詩で始まっている。
Just_So_Stories/The_Elephant’s_Child
(原文)
I keep six honest serving-men
(They taught me all I knew);
Their names are What and Why and When And How and Where and Who.

(日本語を解するこども向けの意訳)
私にはうそをつかない正直者のお手伝いさんが6人居るんだよ
(その者達は私の知りたいことを何でも教えてくれるんだよ);
その者達のなまえは「なに? (What) 」さん、「なぜ? (Why) 」さん、「いつ? (When) 」さん、「どこ? (Where) 」さん、「どんなふうに? (How) 」さん、それから「だれ? (Who) 」さんと言うんだよ。
Wikipedia 「5W1H」

あのキップリングが最初に使ったというのはちょっとびっくりですね。

閑話休題

でも、この六個の疑問詞は、等価に捉えるべきなんでしょうか?
色んなことを言っている人たちがいます。

色んな重みづけ

「桑原 晃弥」という方が「トヨタ式5W1H思考」という本で、トヨタ式のやり方というものを紹介しています、

トヨタにとって問題は「あって当然」で、「問題がない」というのはほとんどの場合、「問題が見えていない」か「隠している」ことを意味します。
だからトヨタでは、独自の「5W1H」すなわち「WHY、WHY、WHY、WHY、WHY+HOW」で問題に食らいつき、真因を見つけ出すことで、確かな解決策を打つのです。「トヨタ式5W1H思考」のKADOKAWAのサイト

こんな考え方を、働き方改革に使った例もあるようです。
私が別記事に書いた「制約理論」に基づき、働き方を制約するものを導き出すために、「何で」を繰り返し使った「マツダでの使い方」のような例もあるようです。
ここでは、「生産性を制約するもの」を見つけ出すために、何度も「なんで?」を繰り返して、「ボーリングの1番ピン」を見つけ出すわけです。

この考え方は、研究や開発にもダイレクトに応用できる気がします。

バリエーション

結局、「何で?」という疑問をうまく使いこなすことが一番大事なのかもしれません。

で、戯言として、以下のようなものを考えてみました。
「W.H.Y.」
W: Why なんで?
H: ホントに?
Y: やってみる(試してみる)

こんなぐらいが、研究とかには大事なのかもしれません。

ザ・ゴール(制約条件を見つけて全体を最適化)

ちょっと思い出しましたので、かつて会社で購入して10年ぐらい前に読んだこの本を再読しました。
アマゾンでのページ

簡単にまとめれば、「全体を最適化するためには、制約条件になっているものを漏れなくリストアップして、その原因と寄与の度合いをキチンと考えることが重要である。」という感じになります。
大事な点は、「部分に注目してしまうと、逆に、全体のスループットは悪化する」ということだと思います。

制約条件をきちんと取り扱う(制約条件の理論 T.O.C.: Theory of Constraints)ことは、製造現場に限らずに、科学的な考え方全般に適応できる大事な考え方だろうなと思います。

なお、日本を舞台に焼きなおしたコミック版(amazon)もあるようですので、こちらも役に立つかもしれません。

ディープラーニングとシンギュラリティについての戯言

元々、機械学習での材料設計には懐疑的なんですが、依頼されたのでシミュレーションを絡めて機械学習関連の本に小文を書きます。
私だけが全然理解できていない可能性が非常に大きいのですが、やっぱり、一応書いておきます。

ディープラーニング

近年のコンピュータのハード性能の急激な進歩、および、階層化ベイズモデリングのような新たな方法論の展開に伴い、ディープラーニングと名付けられた機械学習手法が急速に進展しているようです。
多層のニューラルネットワークの利用に関する個々のアイテムを見ていけば、確かに、人工知能における問題解決方法の改良は長足の進歩を遂げつつあることは理解できます。

つまり、人間の脳における情報の認識能力であったり、その処理を行うことに関しては、人工知能がかなりの段階に達しているようであり、外部からの情報を認識して処理することで「ある程度の判断を行い」、「人工知能による無人(自動)運転を行うこと」は確かに遠くない未来だと感じています。
ここまでは、私もだいたい大筋を理解できて、納得できます。

シンギュラリティ

で、「シンギュラリティ」という言葉が出てくると、とたんに大きく理解を超えてしまいます。
一般に物理現象でも使われる「特異点(シンギュラリティ)」という言葉が、この文脈の中では理解を大幅に超えたものになっているように感じます。
「技術的特異点」に関するWikiを見ていても、未来学者という方たちが提唱される「技術的特異点」の意味が、私にはよく見えてこないんです。
たしかに、情報収集範囲が格段に広がって、その処理能力がむちゃくちゃに向上してしまえば、「ターミネーターでのスカイネットのようなもの」はできるかもしれません。
また、そのネットが、あたかも意志を持ったような状態になるかもしれません。
確かに恐ろしい状態ではあるのですが、まあ、その程度のことです。

材料設計への応用

このサイトの主題のひとつである材料設計という観点では、人工知能を材料設計にも応用しようという流れも各所に見られています。
人工知能が多様な組み合わせを評価することができれば、あたかも魔法のように新規材料を創成できると感じている方もいらっしゃるような気もします。
「普通の人間の脳を再現する」という意味では、階層的なニューラルネットワークを利用することで「圧倒的に大量な情報量」を「非常に短時間で処理」して、「確からしい適切な判断を下す」ということは、現時点では完璧ではないけれど近い将来にできるでしょう。

しかしながら、材料開発というような非常に多岐にわたるパラメタを調整し新たな方向性を作り出すことについては、「少なくとも私は」、いまだ懐疑的な立場を変えるには至っていないんです。
だって、自動車の運転はかなりの多くの方が実行できる程度の事柄ですが、真に優れた発明・発見は限られた天才のなせる業に違いありません。
この差は依然として大きくて、普通程度の知性の人間が一億人集まっても、新規な発見は期待できないのではないかな。
上述のディープラーニングのストーリーから演繹的に浮かんでくるのは、IQ100 程度のそんなでもない人が何万人もコンピュータの中にいるという絵なので、それで何ができるのかしらという気がするのです。

これって、大きな勘違いをしているのでしょうか。

科学的アプローチ

科学的なやり方

前の投稿に引き続き、再度、クラーク氏の言葉を使って「科学的なやり方」ということを考えてみたいと思います。

  1. 「高名で年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。」
  2. 「可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。」
  3. 「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。」

Wikipedia 「クラークの三法則」

開発における挑戦

開発的な意味では、不可能に挑戦するということはとても大事なことだと思います。ちょっと言葉を強く使うと、「盲蛇に怖じず」のようなアプローチなのかもしれません。(私は故事成語をPCという理由で使わないのは嫌いなので、気にせずに使います、)

第一と第二の警句にあるように、「知っているとおごり高ぶって勝手な判断をすること」は明らかにダメで、「不可能(のように見えること)に挑戦すること」こそが大事なことは明らかですね。
でも、確かめもしないで「明らかに無理と分かり切っている方法」で挑戦し続けることはやっぱり徒労にしか終わらないでしょうし、毒蛇にかまれて死んでしまうかもしれません。
その境目は、どのあたりにあるのでしょうか?

多様な分野に通じるということ

やはり、きちんと、現時点の科学の最先端を形成する礎となっているような基礎的な事項を幅広く理解していることが、大事なのではないでしょうか。
そのような基礎的な事項を、きちんと自分の腑に落ちるような表現で身に付け、「人口に膾炙されるような」かみ砕いた表現ができるようにすることこそが、「まるで魔法にしか見えないような科学技術」を使いこなすために必要とされるのではないでしょうか。

科学と魔法

「科学と魔法」

どこかで何度も目にしたような言い古された言葉であるけれども、「科学と魔法」ということを考えてみたいと思います。
有名な使い方としては、「2001年宇宙の旅」や「幼年期の終わり」で知られる著名なSF作家である Sir Arthur C. Clarke の三つ目の法則である以下の言葉でしょう。

「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。」
“Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic.”
Wikipedia 「クラークの三法則」

私の解釈

私なりに、この言葉を読み解いてみると、

  • 物の理がわかると「科学」
  • 仕組みがわからないと「魔法」

というような感じになります。

科学的な視点を大事にできる技術者でありたい私としては、当然、様々な物の理を自分の言葉で理解できるようになりたいわけです。
でも、油断すると、頭でっかちな状態に陥って、上記の法則の一番目の警句にある

「高名で年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。」
“When a distinguished but elderly scientist states that something is possible, he is almost certainly right. When he states that something is impossible, he is very probably wrong.”
Wikipedia 「クラークの三法則」

といった感じで、限界を見誤るような老害ともなりかねません。

開発という観点からの挑戦

翻って、開発という観点で考えてみます。
このとき、「なんだかよくわからないけど、とにかくできる」というような「力技での魔法的な要素」も、当然、必要になってきます。
これは、第二の警句である以下の言葉に対応することになるんでしょう。

「可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。」
“The only way of discovering the limits of the possible is to venture a little way past them into the impossible.”
Wikipedia 「クラークの三法則」

では、開発ではひたすら力業でがんばればなんとかなるかというと、そういうわけでもない気もします。
実際、「理屈がわかれば、その事象の限界も想像できるし、違う切り口の可能性も見える。」とも思います。

結局、どうすれば?

結局、頭だけで考えても、体だけをひたすら動かしても、どちらかだけではダメなんでしょう。
やっぱり、開発をうまく進めるためには、適材適所な人材を少なくとも二人以上集めたチームを組んで、きちんとディスカッションをしながらチームワークで当たるということが大事なんでしょうね。

まあ、年寄りになってしまった私も、横からアドバイスできる形で参加させていただければと願っております。

わかりやすく話す

わたしは、論理的に話そうとするとつい長くなってしまう時が多いようです。
つまり、三段論法どころではなく、五段、八段と、将棋や碁の高段者のような段数を重ねてしまう。

振り返ってみると、話している途中に「挿入句」どころではない「挿入節」を入れてしまって、新たな支流を作っているかも。
英語的には、”…, where something …”ってな感じで、something以降が長すぎる。

で、そっちの流れの分も落ちをつけようとするから、聞いている人には本筋が伝わらない。
書いているときには、書き直し(推敲)しているので、枝葉は分岐だとわかるように書けるんですが。
話しているとそうはいかない。

話すときにこそ、”K.I.S.S.”ですね。

反省。

「思考の整理学」

前の記事にも書いた、「思考の整理学」を、久しぶりに引っ張り出して眺めてみました。

約四十年前に書かれたエッセイなので、少なくとも私にとってはそんなに古臭く感じないはずなのですが、ちょっと文体が読みにくいですよね。
私は、この本は大好きですけど。

切り口とか内容は、すごくうなずける妥当なもので、結構目からうろこが落ちるような感じがするんですが、やっぱり若い人にはわかりにくいかもしれない。
この本を、以前に、会社に入社したての人たちに読ませて要約させる練習をしてみたことがありますが、なんだか文章にうまく入り込めない人が多かった記憶があります。
それと、漢文の題材を持ってくることにもついていけない人も少なからずいたような気もします。

適切な題材で、共感を呼びやすい、もう少し”up to date”なエッセイはないものかしら。

わからなかったら、三日考えてみよう

何だかよくわからないときがあるだろう。
色んなタイプのわからなさが起きるときがあるだろう。

何処からとりついていいかも、理解できないときもある。
また、最初の切り口だけは判るときもある。

そんなときは、とりあえず、三日間だけ考えてみよう。
当然、呆然と考えるのではなく、かといって、真剣に考え込んでいては疲れ果ててしまうので、いつも頭の周りを紐をつけて飛ばしているような感じで。

決して、この時点であわてる必要はない

そうやって、自分の周りを飛ばしていると、ある日突然、わかってくるかもしれない。
その状態は、いろんな表れ方をするだろう。

「分かる」というような感じで混沌の中から分別できてくるのかもしれないし、「判る」というように判明して明らかになるのかもしれないし、理(ことわり)が「解って」理解できるかもしれない。

そんなふうに時間を使って見て、考えることに飽きて興味がなくなるのなら、わかる必要もないことかもしれない。
何だか、もやもやと心に残ることならば、いずれまた、心の表層部に疑問として浮かび上がってくるだろう。

そのあたりの見極めのために、三日間ぐらいは頭の周りを飛ばしてみることをおすすめします。

で、浮かび上がってくるようなことが多い人には、例えば、外山滋比古先生の書いた「思考の整理学」の中の、「発酵」とか「寝かせる」とかを読んでみて、それをどう仕立てあげるかを考えてみることも役に立つかもしれません。